DIRECTOR’S JOURNAL

Entries by Naoki Ei, the Director/Designer of CITERA®

COLUMN

2021.08.02

大袈裟に言えば、Tシャツは最も簡単な自己表現の一つである。自分の趣味趣向を、そこに一発で表現できる。しかも涼しい顔して。何なら「HATE YOU!」と胸にプリントされたTシャツを着て、嫌いなやつの前に現れ「え?どうかしました?」的な顔してシラをキルことだってできる。そんな風に、自分の心の中だけでする「小さなガッツポーズ」的なパーソナルで楽しい表現手段でもあるし、所属する団体、やってるスポーツ、学校、音楽その他何でも自分が関わっているものを簡単に、しかも格好良く、そして品よく表現できる。それがTシャツだ。

大人になった今では、デザインがいいというだけで、内容にどんな意味があろうと気にせず着ることもできる。若い頃はそうはいかなかった。デザインが格好良くても聴かないジャンルのバンドものなどには手を出さなかった。というより、出してはいけないと思っていた。どうしても着たければ、無理にでも聴いて着る、という強引な手段もあった。それは、そうでもしないと本物のファンに殺されると思っていたから。「はっはぁ~ん、さてはおめぇポーザーだな?」なんて言われた日には生きた心地がしない。本気の人から見たらそのTシャツだけで「同志」と思われてしまい、その後同士でないことがバレたら大変だ。そんな風に敏感に反応してしまうので若い頃は、その筋でなければ手を出してはならないもの、そんな風に気をつける必要があったのだ。

過去に痛い目にあったことがある。
東京は表参道の裏路地にある深夜のファミレスにて、遠くの席にいたグループの中にスケートブランドのTシャツを着ていた人がいた。当時はスケーター以外がその種のものを身につけるのは珍しかったので、仲間意識を感じみんなでジロジロと見ていたのだ。どうやらそれが「ガンを付けている」と勘違いされ、店を出た瞬間に襲われたのだ。そりゃそうだろうよ。店先で、安全靴でケツを蹴りあげられ、そのまま裏路地まで引きずり込まれそうになった。必死で事情を訴え何とか解放された。趣味の合うものを身につけているからといって、その人が同様の趣味人であるとは限らない。そんなことを、身をもって体験したのだ。今時はそんなことはないが、80年代終わり頃では手軽にコアな趣向のTシャツなど買えなかったので、そんな間違いも起こったのだろう。

そんなTシャツ。
10代に着ていたものは着倒して捨ててしまったものも多く手元にはもうない。しかし幾つかは残っている。20代以降に手にしたものは今も屋根裏のケースの中に大量に残してある。

高1の時にライブに行った友達に買ってきてもらったPUBLIC ENEMYのもの。これは当時、映画ターミネータ2の中で子役のかっこいい子が着ていたことで、学校の女子から「なぜあの子と同じTシャツを着ているのか?」と散々質問された思い出があるTシャツだ。












これも同じ頃、親に無理やり一人で行かされたハワイで買ったスケートブランドのもの。デザイン的には全く意味がわからないので、知らない人から変な奴と思われそうな程だ。デザインの元ネタはあるのだろうか?ハートにひび割れが出ているのでどこか悲しげでもある。












STUSSYのこんなドット柄のやつも出てきた。これは中学生くらいのものだ。














あとは2000年前後に原宿界隈で世話になっていたこともあり、GOODENOUGHやECがなどが多い。











そして自分が仕事をしていた会社のものなど。この時から今に通じる手仕事的な要素がしっかりと盛り込まれていて面白い。




一般的に見て、どれも市場的、歴史的な価値はないが、間違って喧嘩事(上に書いたような)になる可能性を持っていたり、行列を作らせたりと極一部ではあるが、熱いファンたちを魅了したTシャツであることは間違いない。

Tシャツというやつは、ある人にとっては何でもないものでありながら、その裏では人の感情を操れるほど恐ろしいパワーを持ったやつなのである。まあそれはTシャツに限った話ではないのだけど……。僕が今も持っているものはそういうものが多いのである。