DIRECTOR’S JOURNAL

Entries by Naoki Ei, the Director/Designer of CITERA

COLUMN

2022.5.16

先日のメルマガでは、そろそろ日本も世界に遅れを取りつつも扉を開き始めた感が出来てきたこともあり、自分の過去に旅した話をしました。さて今回は、「ディテール」の魅力についての話をしてみようと思う。

ディテールと言っても、様々な使い方というか、どんな事柄にもディテールというものはありますが、ここでは物が持つディテールに限った話をしていきます。物に付随するディテールとなると「細部」となるわけですが、この細部というものが非常に重要と考えます。もちろん、その細部さえよければいいということではありませんが、キーポイントになることは確かです。細部に着目するポイントが有るのと無いのでは、物としての完成度合いに大きな違いが生じてくる。分かりやすく例えるなら、安いコピー用紙と手漉きの和紙の違いである。

しかし、難しいのは安いコピー用紙が悪い、ということでもない。現に細部にうるさい私も、そういったコピー用紙を日々の出力やメモ用紙代わりに使うことがある。そこはよそ行きかよそ行きじゃないか、とかそういったことでの使い分けなのだが、さらに難しいのは、粗悪品であっても使い込むうちに愛着が湧き、それが細部と思えてきてしまうことが時折あることだ。





高い値段を出して買ったTシャツよりも、1パック数枚入りで¥500くらいで買ったTシャツの方が格好よく思えてしまうこともある。おそらくそれは、使用頻度による使う人と物との関係性が生む「細部」と言える。なので、それが他人が羨む程の美しさであるかは怪しく、絶対的な細部とは言えない。しかし、それについて一つ言えることは、安かったからこそ気にせず手荒に使え、いつしかその物自体に情を感じてしまったのだろう。そういうもの程、捨ててもいいはずなのに、いつまでも捨てづらいのである。もちろんそう思わずにポイポイと捨てられることもある。現代人はこれだからいかん……。

さて、美しい方の細部について。
良いプロダクトというのは細部を持つ。よく言われるのは「神は細部に宿る」。これは誰が言い出したのかは知らないが、物を作ることに関わる人たちにはよほど刺さる言葉なので割と有名な言葉となっている。最近あまり聞かなくなった様な気もするが、その細部には装飾的な細部、機能的な細部、経年変化的な細部といった種類の細部がある。

装飾的な細部とは、人の根源的な何かを表現しその部族の生きる証であり、動物のマーキングみたいなものだろうか。自分たちの存在を他にアピールする手段であり、また継承的な行為でもあり結果、文化的な意味を持っている。人類の血の中には、どうしたって生きた証を残そうとする何かがありそれが我々を装飾行為に走らせるのである。




次に機能的な細部はどうだろう?これは物の進化の過程で生まれる、より使いやすく良い物をという思いから出てきたものだ。人が持つ向上心と真心が生んだ細部である。車や飛行機などは空気抵抗を考え形やデザインは日々改良され、より効率的なものであるために必要な細部に変わってくる。そして、その反対側にある真心による細部というのは、「毎日これを使う母ちゃんは、握りのこの部分に凹凸がある方が滑りがなくなり使いやすいだろう」という息子の親を思う気持ちによって生まれる細部であり、出発点は違えど、物として明確な目標として、使用を全うするために生まれるものである。

そしてもう一つの、経年によって生まれる細部であるが、これは物自体が持つ機能以外の要素であり、使い続けたことによる摩耗、汚れ、色褪せ、傷など副産物的なものである。作り手の工夫と美意識、そして使い手による作り手への理解と敬意があってこそ成立する細部である。理解と敬意がなければ、それはただのおんぼろな物でしかないのである。様々なヴィンテージ品の持つ価値ある美しさは、作られた時点ではまだ誰もその価値に気づいていなかったのである。




細部と一言で言ってもこの様に目的、意味合い、成り立ちなどに違いがあり、狙ってできるものもあれば、時間が経ち誰かが発見し生まれるものもある。気づきそうもない細かな箇所であるのに、人の目を惹きつけるのは人の手が作り、そこに心があるからである。物自体に惹かれるのではなく、それを生み出した人の行為自体が神としてその物の細部に生きているのだ。そしてそれを誰かが発見しそこに価値を見出すのである。

最終的に思うのは、神とは人の心なのではないか。人の心こそが神であって、見えない物を神と呼び、知らず知らずの間に物を作る手が物の中に神を宿らせているのではないだろうか?