先月、アメリカのとある場所に行ってきたのですが、そちらに関してはウェブメディア”Ring of colour”やCITERAサイト内特設ページの方で10月31日より公開されます。
その旅に関するメルマガも書こうと思っていますが、まずはそちらが公開されてからにしましょう。
さて今回はというと……
最近、そこ以外にどこかに行ったわけでもなく、だからといってガイド本を見ながら話を捏造したり、10年以上も前に行った国のことを書くわけにもいかないので、先日新幹線の中でふと思った「旅との距離感」について書くことにします。
どこかに行く時は目的を持ち計画をたてて行くことが多い。
ふらりとコンビニや本屋に寄るように「ただなんとなく」航空券やホテルを予約してどこかの国に行く、なんてことは余程のことでもない限りしないだろう。
いや、”余程のこと”自体が何かの目的だろうから、”お金と時間を持て余していない限り”といった方がいい。
それにしたって「じゃあ、その国に行くならどこそこに行こう」などと目的を決めてしまうに違いない。
それが普通だ。
「旅との距離感」とは、旅をすること自体を冷静に捉え、盛りあがらずに自分のできる範囲内で計画たて旅を修める。
ということなのだと思う。
「よい旅行者は計画や到着予定を持たない」
これは老子の言葉。
果たしてそうなのか?
そもそも老子の生きた時代と現代では背景が違うので、そんなことはあてにならない。
「中国のえらい哲学者のいうことだからそうに決まってる」なんて信用しようものなら、えらい目に会う。
もちろんそう思いたい気持ちはあるが、現実的ではないような気がする。
では一体、どうしたらよい旅行者として時間と距離を乗りこなし、旅とちょうどよい距離感を保てるのだろうか?
映画「007」のジェームズ・ボンドは常に旅をしている。
彼ならば、旅に出て、計画(任務)通りに工程をこなし、無事に帰ってきて「今回も思い通りのよい旅ができた」と一言ぶっ放すだろう。
ジェームズ・ボンドのようにどんな事態でも冷静沈着に対処し、常にクールに装い、ロマンス込みでハチャメチャな旅(映画1本分)をした上でそう言い放ってこそ、旅とのちょうどよい距離感がとれているのだと思う。
さてジェームズ・ボンドから話を元に戻そう。
自分がよい旅行者であるかどうかなんて皆目分からないが、どこかに行った際に毎回思うことがある。
それは「また来よう」ということだ。
また来れる根拠などないのだが、そう思うから仕方がない。
事前に、行きたいところをマークし計画をたてる。
しかし実際には、偶然見つけた楽しそうな場所や、現地で突然掴んだ情報などで即興的に予定を作り替えることが多く、最初に組んだ予定通りに回ることなんて不可能だ。
しかも、現地での即興性に慣れてくると過去の自分が作った計画なんてつまらないとさえ感じることもある。
道に迷って行きたいところが見つからない、行った店が臨時休業だった、なんてこともよくあることだ。
そんなことを繰り返しているうちに、想い描いていた「旅の計画書」とはかけ離れたものになってくる。
そう、007の様なハチャメチャな状態だ。
さすがにロマンスはない。
映画同様ラストは迫ってきているので、無理やり旅をエンディングに持っていかなければならないわけで、「時間がないから行きたいところに行けなかった」などと言っている場合ではない。
計画通りにいかずハプニング続きの工程ではあるが、行けなかったところの代わりに行った場所は確かにある。
知らぬ地で1歩外に出れば、思いもしなかった場所、人、時間に必ず遭遇する。
計画段階では想像もしていなかったものに、だ。
言葉も習慣も違う知らない土地では終始予定通りにいくわけもなく、ただその地に流れる時間やそこにいる人たちに翻弄されるしかない。
老子が言いたいのはそういうことなのかもしれない。
知らぬ地で事前にたてた計画なんて無意味だ、と。
そして旅も終わり家に着き荷解きをしながらいつも思うことは、「今回も思い通り以上のよい旅ができた」である。
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