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「旅をする」ということが一つのトレンドであるのは
昔から変わらない。
よく「自分探しの旅」などと言って自分を捜しにいく人がいるけれど、
帰って来て「自分が見つかりました!」と
宣言した人に会ったことがない。
そもそも自分はどこに行ったって自分なのだから、
行ったことのない土地に行ったところで
見つかるものなのだろうか…
近くのお寺で座禅でもして
自分を見つめ直すことの方がためになる気がする。
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さて、
海外に行く場合は飛行機に乗る。
船でという人もいるかもしれないが、
それは「豪華客船世界一周の旅」くらいで、
大抵は飛行機でいくことになる。
狭くうるさい飛行機に何時間も閉じ込められ、ひたすら耐える。
窓から大して何も変わらない景色をたまにみたり。
もちろん美しい夕日や朝日を見ることもできるが、
置かれている状況は、おもちゃの飛行機でアタックしてくる小学生、
ぶつぶつと独り言がうるさい老婆など、
景色の様にロマンチックにはいかない。
仕方なくじっとしながら「ペットってこんな気持ちかな…」とか、
並んだシートにおさまりながらカロリーの高そうな機内食を見ては
「フォアグラ工場みたい」と、思ってみたり。
とてもポジティブにはなれない。
映画、音楽、読書で、さも移動を楽しんでいる様に
自分を誤摩化してみたりもする。
本当は苦痛で仕方がないのに。
決してそんなことはしないが、叫びたくもなる。
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あの苦痛があるからこそ、
解放され見知らぬ土地に放り出された時の
あの開放感がたまらないのだろう。
もし、通勤通学と同じ様な気持ちで何の苦痛もなく行けたとしたら、
あんな開放感を味わうことができるのだろうか?
と思ってしまう。
あの苦痛のトンネルを
やっとの思いで潜り抜けてこそ味わえる開放感。
その開放感が旅を素晴らしいものにしているのではないか?
であれば、旅をする中で最も重要なのは、
せまくうるさい飛行機で長距離を移動すること、とも思えてくる。
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自分にとっては、
これまでもこれからも飛行機の移動は苦痛なものだと思う。
だからこそ少しでもその苦痛を誤摩化すための
「アクティブ・トランスファー・ウェア」
なんてものを思いついたのだろう。
「苦労は買ってでもしろ」という大人の説教にも
「なるほど」と頷いてしまいそうになる。
自分は見つからないかもしれないが、
やりたいことは見つかるかもしれない。
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そしてまた苦痛を誤摩化すためにCITERA®を傍らに置き、
苦痛の先の開放感を求め移動をしていくのだろう。
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