桜もほぼ散りまして、気温の乱高下と晴れや雨を繰り返すうち、最高に気持ちのいい春がやってくる。そうなればもう、朝洋服棚を目の前に半袖に迷うことなく手が伸びる様になるだろう。そしてそうなると「いい季節がやってきたな」と毎年思うのである。もちろん冬は冬でコートに手を伸ばし「もうそんな季節か」と季節の変化を実感するのだがこの場合、春と違い言葉にも違いがはっきりとあり、哀愁じみたどこか寂しげな雰囲気が込められているのである。
それは当然であって、花が咲き乱れ、そこかしこで若葉が芽吹く様を見ていると、さも自分まで生まれ変わった様にさえ思えてくる。とても清々しいというか、どんな自分にでもなれる様な気分になり、歳を重ねることとは逆行し10代の頃の自分に戻った様にさえ思えてくる。
中には、その感じが嫌で不安定になるから春が嫌い、と思う人もいるだろう。「五月病」なんていう言葉もあるくらいなのだから、なかなか微妙な季節である。しかし、私の様に若返った気分になり、浮かれて頭に花でも咲いちゃった様なハッピー野郎が出てきてしまうことを思うと、それもある意味「五月病」なのではないだろうか……。
さて何だっけ? と、このメールマガジンの本題を忘れそうになるほどに関係のない話を続けてしまいましたが、それを五月病のせいにすることもできるのだけれども、流石にそこまで病に侵されてはいないので本題に移ることにしよう。
サラりとドライなタッチのコットン生地。人に例えると少々冷たいやつとでも言おうか。でも、そういう奴がなぜだかしっくりくる時がある。言い草が少々乱暴な方が悩みや曖昧な自分を吹っ飛ばしてくれる。ある悩みに対して解決法を見出せない時ほど、そういうやつの力を借りたいと思うことがある。
悩みを聞きこちらの側に立ちながら一緒に悩み、答えを見つけ出そうとしてくれるタイプもありがたいのだが、ビール瓶で頭を一発殴ってもらったほうがよほどスッキリする時がある。もちろんそんなことはされたことはないけど、そのくらい衝撃的に「なんか面倒臭ぇこと考えてんなぁ、こっちはお前じゃないからどうでもいいけど、そんなことどうだってよくねぇか?酒でも呑んで忘れっちまいな」と言ってビール瓶で一発。そんな感じで春から夏にかけてはドライな生地感が良いのである。
そもそもなんで襟高のTシャツなんて出したのか。身なりに気を遣っている様に見せたいからだったと思います。とはいえ、楽ちんなものに着慣れてしまったので堅苦しく感じるものは避けたい。シャツを着るよりもTシャツで過ごして来た時間の方が長いのに、些かではあるが社会人としての自覚もある面倒な人間のため、少しでも「まともな人」に見えるようにしたい。そんなわけで襟高だ。そもそも襟が高いからといってまともに見えるのかは不明であるが。
さらに、こういう襟の方が少し未来っぽく思える。それはおそらく昔の刷り込みなのだと思うが、漫画「ドラえもん」に出てくる未来の人は大体が襟高のTシャツを着ていた。これは作者の未来感を出すための演出であり、子供ながらに主要人物たち「現代人」とは違い、襟高なだけでも確かに「未来人」に見えた。襟が高いというだけで洗練された雰囲気を醸し出していた。
襟高のTシャツ、手にはスマートフォン、車は自動運転機能付き、家電に向かって話しかけるといった生活を送る我々は、いつの間にか子供の頃に憧れた未来人になっていた。それなのにまだ21世紀という響きがまだ先の様に思えてしまうことがある。昭和世代にとって21世紀は、いつまでも手の届かないものの様に思えてしまう。もう20年も過ごしているのに未だ21世紀を手に入れられていない気分だ。
何が物足りないというのだ?十分に未来になったではないか。それとも、今に甘んずることなくまだまだ進歩しなければ、という思いからだろうか。であれば、いつまでも21世紀を夢に描くのではなく、22世紀にはどんなTシャツを着ているかを描くことにすべきだ。春の日に風に舞う桜を見ながらそんなことを思うのであった。