最近、「世間ではボーダーが流行っているらしい……」ということを耳にした。しかし、一体どんな柄のボーダーが流行っているのかまでは耳に入ってきてはいない。太いのか細いのか、ランダムなのかカラフルなのか。いずれにしても、ここでは世間で何が流行っているのかはどうでもいいこととしよう。自分の中ではボーダーの波はあるが、基本的には好きなアイテムでスタイリングのアクセントにもなるし、なぜか昔からそれを着るだけで気持ちが切り替わる様な気がする。特別に変わったアイテムではないのに、気分を変えてくれる魔法の様な不思議さを持っている。
シマシマという要素が世界を切り分けてくれるからではないだろうか?横に線を引くことで分断してくれるのだ。何かに固執した時、嫌な気持ちに捉われた時、諦められない時など、スパッとそこから自分の意識を切り離し解放してくれる。ボーダーにはそんな力があるのではないか。なのでボーダーを着ると違う自分になれるのかもしれない。横に線が引かれ、意識や世界を簡単に変えてくれるのだ。
手品師がアシスタントの女性を縦長の箱に入れ、仕切りを挿し、身体を切り分けてしまう。古典的なそんな手品を、子供の頃は呼吸をするのも忘れ食い入る様にテレビで観ていた。その時ばかりは、皿に残っている食べなければ無くならない嫌いな野菜、明日の学校、歯磨き、お風呂など、子供にとっての憂鬱なことは、何処か遠くに置き去ってきたかの様に、今の自分から切り離され心も身体も軽く生き生きとした気分になれた。手品師がアシスタントの身体を横に切り分けると同時に、僕の意識の世界も横に切り分けてしまったのだ。
意識の中に線を引くことは、気持ちが変わりとても良いことだ。しかし、人と人の間に線を引くことには問題がある。隣国との間に線を引く、友人との間に線を引く、関係が一線を越えるなど。そんな線の引き方には、その先にどこか恐ろしさが待っている。その人たちの間には何か取り返しのつかない事態が訪れるのではないだろうか……。そう感じるような線の引き方だけは賛成できない。今の社会はそういった線の引き方によって、優劣、富、国や民族の存在価値などを優先させている様に思える。
今も昔も争いごとは無くならない。平和を強く訴える代弁者は何者かに弾圧されたり消されてしまうことがある。「邪魔者」と決めてそこに線を引く。邪悪な線を消そうとする勇気ある者が消されてしまうのが今の世の中ってやつ。だから声高に訴えるのではなく、引かれた線を消すことを表明するためにボーダーを着て、世の中に無言で訴える。
そんな大袈裟なことでなくてもいい。昨日の自分から切り離すためだけに着てもいい。考える必要だってない。その日目覚め、無意識に手に取ったのがボーダーだった、ただそれだけでいい。好きなレコードジャケットに写っている人が着ていたから、という理由で似たようなボーダーを着るのでもいい。とにかく自由であることを感じるために服を選ぶ。それが縦でも横でも斜めでも。しかし、ボーダーというものほど、その意味が強いものは無い。
世の中の変わり目にはボーダーが流行る。60年代、90年代、そして今。やはり世界を変えるために皆が線を引きたがっていて、生き物のとても有機的な行動として、無意識に心がそれを選んでいる。小難しく考えればそんな風にも言えるのがボーダーの面白いところ。
甘いミルククリームと薄く焼かれたクレープが幾重にも交互に重なり合い形成するミルクレープを初めて見た時、あの重なり合う層が口の中に入ったらどんな世界が見えるのだろう?その先にどんな世界が待ち受けているのだろう?そんな風にワクワクした。細かいボーダーはそれと同じで、どこか人をワクワクさせる。自分も歳をとり若い頃に飽きるほど食べたミルクレープにはすっかり興味はないけれど、時々あの層が口の中で押し潰されて一つになり、あの柔らかく甘ぁ~いクリームが広がる瞬間を思い出しては、昔の放送終了後のテレビ画面で観れた砂嵐の様に細かいシマシマが頭の中を駆け抜ける。その感覚は意識が覚醒するかの様な勢いを持ち、頭をとてもクリアにしてくれる。
細かいボーダーを着ている鏡の中の自分を見た時、とても新鮮に思えるのはそんな理由だ。
梅雨時期になると気分も重くなり、朝家を出るのが億劫になる。ムンとした湿度を帯びた空気のせいだ。湿度は五感全てにからみつき憂鬱にさせようとする。そんな時は、このチカチカそしてクラクラするほどの無数の線が作り出す細かなボーダーを見つめて憂鬱な気分を断ち切る。この時期のボーダーにはそういった機能的な意味合いがある。もちろん実質的な機能的箇所もあって、Tシャツ内でこもる湿度や熱を逃すための脇に配されたメッシュパーツや綿100%のボディが湿気を吸い込む。不快な時期だからこそ素肌に触れるのは優しい素材がいい。
いつの時代も、いつの季節でもボーダーというものは役に立つ。だからこそワードローブを見れば点在しているのだ。太いものから細いものまで、色とりどりのボーダーたち。もう着られることはないかもしれないが、断捨離と勢いをつけてもそうやすやすとは捨てられないのだ。社会に対して何かを叫びたい気持ちは今もあり、それと同じ様に似た様な種類のボーダーが積まれていくのである。