ポーチってものはいくつあってもいい。それはスニーカー、バッグ、Tシャツにも言える。一体自分はポーチってものをいくつ持っていて、いつまで買い続けるのだろうか……。そんな愚問をうっかり自分にしてしまうのは、やはり高校生の頃に父親に言われた「足は2本しかないんだぞ」という言葉のせいである。玄関に溢れたスニーカーを見て呆れながらに放ったこの言葉は、その時大して気にしなかったにも関わらず、同じ種類のものをいくつも買う度に思い出される。
資本主義の消費社会に肩まで浸かった自分には、歳をとればとるほどボディーブローさながらに効いてくる。小粋なポーチだからいくつ持ってたって気にならないぜ!なんて父の言葉を振り払いたいところだが、今もその言葉からは逃れられない。とか言いつつも、今日もポーチやスニーカー、それだけならまだしもレコード、CD、バッグ、Tシャツ、雑貨その他色々を買い続けている。頭の中なのか、心の中なのかわからないが、父の言葉は買い物欲が湧き上がるとサイレンの様に鳴る。こちらも大人だ、鳴ったサイレンは止めればいい。いつまでもおやじの言うことなんか耳にしてられないぜ、である。
たまたま自分は「父の一言」なだけで、他の人はまた違う何かによって消費欲をかき消そうとするサイレンがあることだろう。もちろん今後の世界環境のことを考えれば、今当たり前に思っている生活様式は改めなければいけない。しかし人間という生き物は、わかってはいても考え方をスイッチを切るかの様に変えるのは得意ではない。もちろん得意な人もいるだろうが、そこに自分の感覚的な美徳の様な、利益みたいなものがなければ、考えを変えることは非常に難しい。こういうことを考えると必ず思うことは、環境を大切に考えようとして、僕がこのペットボトルを買わなくなるとする。しかし目の前にあるペットボトルは他の誰かのところへいくだけだ。それ自体が無かったことになるわけではない。
だから不買行動は意味がない、と言いたいわけではない。一人一人が行ってそれが何十万人となって初めて社会が変わるから、そのうちの一人になりなさいということなので、当然意味がある。しかし、この便利な社会システムの中にいると「わかっちゃいるけどやめられない」ということが山の様にある。そして僕は思う、その人間の愚かな矛盾した部分ほど人間らしいのではないか、と。
ここ数年、インスタグラムで動物園のゴリラのアカウントをチェックしている。特に食事をしているシーンはたまらなくおもしろい。口の動き、手や顔の仕草がとてもいい。そして非常にもったいないと思える食べ方をする。贅沢に葉だけを食べあとはポイと捨ててしまう。もちろんそれを「勿体無い」と思うこと自体がナンセンスなのだが、それを無視し人目線で見ると、親に怒られそうな程ポイポイと食べられる部分を捨てるのである。自然界ではそれが「勿体無い」とはならない。そもそも勿体無いという概念がないのであろう。彼らの存在自体が矛盾のない「自然の一部」だからであって、人間は既に自然の一部ではない。
しかし、地球という場所で生きている以上、そこにあぐらをかいててはいけない。ゴリラを見ながら彼らが自然の中でいつまでも血を絶やさずに繁栄していける様に振る舞わなければならない。それが人間の務めなのだと思う。
と思う反面、そうはいっても……となる。じゃあいったい僕はどうしたらいいの?という葛藤の連続だ。自然保護の精神てのは本当に難しい。何が難しいかって、自分を変えることが難しい。答えは簡単なんですけどね……。
ポーチの話じゃなかったのかい?と思われた方、ごめんなさい。正直に言いますが、A -POUCHについて然程書くことがなくて思ったことを気にせずつらつらと書いてしまったもので、ポーチのポの字もありませんでしたね。書けることは商品ページの方で書いているので、そちらを読んでみてください。とはいえ、このまま何も書かずにってのもあれなので。
ずっとこういう太い糸でざっくりと見えるけどしっかりと密度のある生地を使ってバッグを作りたかったけど、なかなか条件が合わずで実現できなかったところ、ちょうど良いタイミングでリモンタの生地が見つかりまして、こんなかわいいポーチを作ることができました。いつもみたいにダークなカラーとは正反対で金太郎の前掛けみたいに黄色がドーンと。気をつけないと安っぽくなってしまうので、ファスナーとかストラップとか細かいところに気を使いながら仕上げた夏らしいアイテムです。せっかくの夏なので、普段と気分を変えるつもりで使ってみて欲しいです。
消費癖は変えられないけど、気分ならいつでも変えられるのでいかがですか?