日ごと気温や草木から春を感じる様になり、街に出れば卒業式に向かうであろう学生の姿が眩しく映る様に思える。そのせいか街並みが何処かぼんやりと幻想的に見えてしまうのだが、それは新しい季節が生む若さの輝きのせいなのか、ただただ自分の加齢のせいなのか、もしくはこの時期特有の空気に混じる花粉や黄砂、PM2.5などエアダストによって視界がぼやけているだけなのか。何れにしても、街を歩けば人も自然も若々しく芽吹くその輝かしさと移ろいのスピードに目を奪われ圧倒されてしまう。それは、自分以外が尾を引くほどに猛スピードの高速再生された世の中において、時の経過を失いただそこに存在するだけの無機質な物と化してしまった自分に対する悲しい喪失感なのかもしれない。彼らが放つ光よりも、既に自分が放つ光が下回ってしまったことへの恐れによる目眩のような感覚なのではないか。
そうやって意味もなく光と影の影側に自分を当てはめてしまうのは、春は楽しいことが多い反面どこか精神が不安定にもなるということだ。一体その不安定とやらはどこから来ているのだろうか?春になると街に変な人が出没するのも確かだ。寒さから解き放たれた解放感によるものなのか、自然のサイクルが生き物を成長の時期へと導く変調による副作用なのか。非科学的か科学的かは知らないが、とにかく春という季節は心を乱す季節でもあるので注意が必要である。
そんな季節だからこそ、普段より意識的に自分を制御することが必要だと思う。まずそれには、生活リズムと身なりを整えることが大切だ。健全な精神は健全な身体に宿る。私は形から入る方で、きちっとした服装や運動のためのウェアやギアを揃えることによって、生活や身なりを整えていくタイプなので、 この新しいセットアップであるPASでも着て新鮮かつきちっとした気分を保ってみることから始めよう。しっかりと張りのあるツイル素材と裾のエッジ感がそういった気分を高め、どこか凛々しく思えてくる。完全な自己洗脳のようなものであるが、形から入るとはそういったことだから仕方ない。
ラフな着心地でありながらシャキッとした雰囲気があるので、AUTOBAHNよりも身が引き締まる。ジャケットなので流石にスポーティーとは言えないが、着心地的にはスポーツウェアに非常に近いものでなんとも不思議だ。同様の着心地なのにおしゃれ着感やよそ行き感を得られる。最近、技術の進歩で100年前の映像がカラーで見られたりするが、欧米においては皆、重量のあるコートやジャケットを窮屈そうに着込んでいる。当時ではそれが当たり前なので、当人たちはなんとも思わずにいただろうが、100年も過ぎるとこうも変わってくるのだな、と。とはいっても、見当もつかないほどや意味の分からないほどに変化しているわけではない。基本的な形は案外変わっていないものだ。素材やディテールの違いはあれど、馬車が自動車さらには電気自動車にとって変わったほどではない。
洋服業界はその辺りが良くも悪くもある。服を着る人間の身体自体が変化しないのだから仕方ないが、画期的なものが生まれにくい。画期的な技術を取り入れたりはできるが、そのコンテンツ自体に変化がない。そうなるとデザインでどこまで進化した様に見せるかを競い合うしかない。まあそれで良いのかもしれないし、それが服の良いところなのかもしれない。諦めているわけではないが、どうあったら軽快で快適に過ごせる服であるか。デザインよりもそのあり方が大切であって、PASの様にラフな着心地だがそこそこきちっとしていて身なりに気も遣っていることを表現できる服。自分がどのような態度をもって生活している、また、したいか、を意思表明するための服。
瑞々しく眩しい若い頃は、自分の存在とその態度を明確に服をもって表現したものだ。だからこそ輝かしく映るのだが、年を重ねるとどうもそのあたりが曇ってくる。使ってるアクセサリーが磨いてあげなければ輝きを失うのと同じで、自分やそれにまつわるものを含めケアしてあげることが必要なのである。どこにどんなものを着ていったっていいし、そんなのは個人の自由であるが、そこにこそその人が自分の人生に求めるアティチュードがあるべきだと思う。着飾るためではなく、アティチュードがあるからそれを着るのだ。適当になんとなくこの辺を着ていればいい、そう思って服を着るよりも、自分の中で以前よりも少しステップアップさせるために選び、その意志を持って着る。その方がより健全な精神と身体になっていく様に思える。いや、絶対そうである。志を持っていなければ何事も成し遂げられないのと同じだ。そうなれば決意表明と言うべきかもしれない。
そのためには、20万、30万位やもっと、100万するものを着るのもいいだろう。そこに自分を持っていくことを望むのであれば100万だって高くはない。もちろんそれは限られた人だろうが、そんなお金の使い方も悪いことではないと思う。ただ、お金でなんでも買えるわけではない。もちろん「買える」と言い切る人もいるだろうが、そう思う人はこのメルマガを読んでいないはずなのでもう一度言い切っておこう。お金でなんでも買えるわけではない。
いや、待て、なんでも買えるほどのお金を持ったことがないからそう言うのであって、もしかしたら実は世の中金さえあればなんでも買えるのかもしれない。そう、春は不安定である。強い意志だって危ういのである。すぐにグラつき春先の雪崩のように一瞬にして崩れダークサイドへ落ちてしまうこともある。もちろんそうなってしまったらもう一度襟を正してPASを着直し、また初めから健全な精神と身体を作っていけばいいのだ。CITERAはいつだってそう思う人と共ある。MAY THE CITERA BE WITH YOU