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Entries by CITERA

珍しくチェック柄。しかもバッファローチェック。狩をする上で間違えて人を撃ってしまうことがない様、木々の中でも分かりやすい赤と黒の柄で組み合わせたものがそもそもの始まりとか。 それは19世紀中頃にWOOLRICHによって作られたものらしい。その頃は娯楽というか趣味というか、人生を楽しむための狩猟なのか、生きるための狩猟だったのかどちらなのだろう? おそらく誤射を防ぐためにという考えを持っていたのなら、前者な気がする。もし本気で獲物を捉えようとするのなら、あまり目立たないようにするのが本能と思えるからだ。 しかし、動物が色を判断できるのかは不明である。今ではそういった知識は簡単に得られるが、19世紀中頃であればそれは全く不明なはずだ。であれば、やはり極力カムフラージュされる様なものを選ぶに違いない。 自然の中ではやるかやられるか、食うか食われるかなのであるからだ。





バッファローチェックは本来赤と黒が基本の様だ。人が生活をする街中ではそこまで目立つ必要はないだろうということで、白と黒、グレーと黒という地味目な色が選ぶことが多い。それでも大柄のチェックなので派手目と言えなくもない。 昨今、また古着が流行していることを思うとこういった柄を着ている若い人がいるのかもしれない。 若者が行き交う街に出向くこともほぼないのでそれは全くの想像なのだが、世の流れというのは一定の期間でサイクルしていることを考えればそんなとこなのであろう、とここは安易に片付けておく。多分違うと思うけれど……。
こういった思い込みが老害というやつなのだろう。ということで、世の中を実際に観察し検証した上で判断しなければいけない、と日々思うのである。 冷静な目で世の中や自分を見つめるというのは案外難しいもの。人というのは自分を基準としてしまいがちだ。 目で見ていながらも、実際は自分の思考で見たものを判断し分類したり。思考を切り離して見たままを冷静に判断することが重要だ。





この世界は本当に存在しているのだろうか?と時折思うことがある。 もちろん存在しているのは確かであるが、それが自分自身の思考の中だけで存在している幻の様なものかもしれない、とふと思う。 もしくは、誰かの夢の中でその夢自体が意識を持ち登場人物それぞれが思考を与えられ、この世の中が実在していると錯覚している、とか。 じゃあその誰かとは一体誰なのだろう。それは宇宙であって生物の根源的な場所だからである。 宇宙には果てがあるのだろうか?同じように脳内=意識にも果てというか限界はあるのだろうか?知識の限界はあるが想像することへの限界はない様に思う。 バッファローチェックの柄に終わりがないように永遠とどこまでも思いのままに想像することができる。





原子が結びついて物質を作り出しているが、宇宙というのは物質として存在しているのだろうか? 空間としてしか存在しないのであれば、それは一体なんであるか、である。 脳みそはあるのにその中で思い描く物事は物質として存在しない。そんな終わりのないことを眠れない夜に永遠と考え、気がつけばいつの間にか寝てしまい冴えない憂鬱な朝を迎える。スッキリしたのかしてないのかも分からずに1日が強制的に始まる。 そういった日には大抵チェック柄を選ぶことが多い。永遠と続きがある規則的なパターン。今日が終われば明日がやってくる。全ては一定の規則的なことが折り重なり体を成している。それをベースとして不規則的なことが存在している。パターンを切り取り無理やり特定の形に納める。永遠と続くチェック柄をパーツごとに切り取り組み合わせ一着にする様に。





そのためにどうしても柄のパターンの辻褄は合わなくなる。襟とボディ、肩から袖など一続きではない箇所の絵柄を合わせるのは不可能である。 人生が時間という繰り返される一定のパターンで構成されたものの中で、不均一で不安定な人というこれほどまでに予測不能な生き物が暮らしを営んでいることも、バッファローチェックの一着と似たようなものである。 規則的なものの中にある不規則。科学的な根拠があってこそ成り立っている人間の中で、最も把握できていない箇所は脳であり宇宙の中にある小宇宙と言ってもいいだろう。





人それぞれではあるが、与えられた限られた時間の中でどれだけのことができるのか。 何かを成し遂げる必要はないが、どれだけの思い出を残せるか。自分の中にではなく関わった相手の中に残し、人伝えによってまた誰かの中で残り続いていくことができるのならどれほど幸せだろうか。 チェック柄の様にいつまでもどこまでも永遠に続くことはないが、肉体は消えてもその存在が残り続けられたら、などというのは贅沢な願いではあるが憂鬱なその朝に手に取るチェック柄を見るたびに、その終わりのないパターンにこそ生きるための希望がある様に思える。 だからこそ冴えない憂鬱な朝にこそ無意識に手を伸ばしてしまうのだろう。少しでも目立つ様にして自分が生きていることの証を知らしめたいのである。誰かに気づいて欲しいという思いがあるのだろう。森の中で誤射によって撃たれてしまわないのと同じ様に、誰かの目に留まることでその命を突き進めていけるのだ。





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