

日本語は難しい。私は純粋な日本人であるがよくそう思う。「純粋な」と書いたのは、両親または父母のどちらかに外国の血が入っているとかいう血統的なことではなく、日本で生まれ日本での義務教育下(しかも公立の)で育ち、海外での教育や生活習慣の影響を受けていないという意味。
そんなわけで、周りの人やテレビ、ラジオから聞こえる日本語を浴びながらの幼少期から公立の義務教育の中で一般的な日本語教育を受けてきた。にも関わらず日本語は難しいと日々思う。そして今日も思ったのだ。下着と肌着の違いって何?である。しかしだ、そんなことはわかっている。自分でその違いって何?と言っておいて既にわかっているのだ。下着は下着であって、肌着は肌着、読んで字の如しなのだ。下着は特定の部位を覆う最低限のものであり、肌着は直接肌に触れるもの=服と肌の中間層としての役割を担うもの。ということだ。下着がパンツやブラジャー、肌着はTシャツ、キャミソール、ランニング、ステテコなどなり、イメージとしては山下清が着ているランニングや昭和の親父のステテコ姿とかそんなもの。現在ではヒートテックというのが肌着の代表と言ってもいいのかもしれない。すっきりしたではないか、下着と肌着の違いが明確にわかったのだ。いやいや違う、そうではない。私の混乱の根源はそこではないのだ。
通念上、というか羞恥心として人目に晒したくない姿を下着と思っている。それは肌着も同じであり、そういった恥ずかしさを伴うものを「下着」と思っている節があり、下に着るものだから表には出てこないもの。であるなら、肌着も下着ではないかとなる。でも実際は違う。肌を隠す範囲が少ないのが下着で、肌を覆う面積が大きいのが肌着。よって恥ずかしさはないのが肌着。ところがだ、セクシャルな意味でではなく、肌着にはバカボンのパパや山下清感としての生々しさがあり、そのご両人以外がその姿でいたらどこかみっともない姿なのだ。バカボンのパパや山下清その本人ならいい。彼らはあれが正装だ。では我々が最新のヒートテック姿でいたらどうだ?どうも格好がつかない。むしろ下着姿の方が格好がつきそうだ。そう思った瞬間に下着と肌着のポジションは逆転してしまう。下着の方が恥ずかしいと思っていたのに、下着以上に恥ずかしい(みっともない)姿を晒してしまうのである。
ではここで、下着と肌着それぞれに「セクシー」という言葉をつけてみよう。「セクシーな下着」はいいが「セクシーな肌着」はないだろう。そもそも肌着にセクシーさを盛り込む必要がないからだ。勝負パンツはあるのに勝負肌着がないのは不公平だが、肌着は格好がつかないのであるから仕方がない。すでに下着がその役を担っていることで、誰も肌着にセクシー枠を与えなかったのである。それは、先にも書いたように中間層という存在が引き起こした弊害と言えるのである。想像してほしい、マネキンにヒートテック上下を着せた様を。マネキンは西洋人モチーフなのにも関わらず滑稽なスタイリングを露呈させてしまう。どんなに顔が小さくスタイルが良くてもだ。何なら良ければ良いほど似合わない上に滑稽この上ない。しかしだ。ここで救いの一手として、頭に手拭いを巻き、鼻の下ヒゲを描き込んでみたら途端にキュートなキャラになるのだ。それはバカボンのパパや植木等あたりが肌着姿でテレビを通し正装化させたことの功績なのである。もし肌着姿で外出するのであれば、手拭いとヒゲの描き込みは必須であるが、そんなことを可能にするのはハロウィーンの日くらいだろう……。
よって肌着は下着の傘下にあるのだ。いや、むしろ下着以上に外に出すべきものではないのである。もちろん、世を見渡せば肌着を部分的に外に出し効果的に使っている人もいたり、柄や素材感でうまくレイヤー使いさせるものを作っているブランドなどもあり、私の中では下着と肌着の関係が上下したり、また独立したり手を取り合ったりと常に安定しないことが混乱の原因があり、同じカテゴリーと思いつつも何ともスッキリしない関係性に思えてしまうのである。

そういったわけで、Tシャツには肌着、下着、出掛け着という3つの存在が押し付けられているわけだ。その用途や素材感、また使用感によるヘタリ具合での降格などによって決められている。着る人の好き勝手ということもあるのだが、それも値段に比例する場合もあるのでなかなか難しいことでもある。
値段の高い肌着というのは日常着として考えた場合、そのユーザーの収入にも比例する。もちろん収入に関わらず肌着は上質なものしか身につけないという人もおられるだろう。それもわかる。基本的に普通のお出掛け着として用意しましたが、場合によっては肌着としても非常に心地よくまた着用感も良いというものにし、シームレスな存在としておすすめしたいTシャツがこのTシャツとなるわけであります。

まずデザインとしてもCITERAとしては定番の切り替えポジションで機能素材を当て込み、これからの季節を乗り切られる様な使用であり、また左右のテンションの解放も担うので着やすさにもつながっている次第ですし、配色も実にメンズ的なカラー配分となり、シンプルながらに周囲へのおしゃれ感の高さアピールにも繋がり、非常に抜け目のないアイテムになっているのです。このくらいのデザインというのは無意識の中に訴えかけるデザイン性となり、押し付けがましくないおしゃれ感をサブリミナル的に植え付けられるものと考えております。

昨今大きめのシルエットが標準値として定着していますけど、そろそろそれも食傷気味な感じもありますし、そもそもそういった流れとは無縁な位置で洋服を楽しまれている方へも、このTシャツのシルエットは良いのではないかと思います。90年代後半のマルジェラや、00年あたりのヘルムートラングのTシャツあたりを好んで着られていた方とかには、改めて新鮮に感じられるとも思っています。海外の肌着寄りのTシャツって丈が以上に長かったりしますし、肌着的な着心地の良い外用のTシャツというのは見つけにくいということもありますから、これを読んでピンと来た方は是非手の取っていただきたいものです。

軽くシルエットの流れに触れましたけれども、そもそもCITERAはそういった世の流れに無頓着というか気にしていないわけでして、回っている世の中の流れが時に一致することがありますが、それは運に任せておきます。我は我であって、世の中に迎合する必要もなくご自分の感性や好きと思う気持ちに忠実であることが最も心地よく正解なのだと思います。流行りに乗ることが心地よいと思う方もいますしそれも正解ということで、地域、宗教、人種などの違いもみんな正解、で良いわけです。

下着であろうが肌着であろうが、身につけた人の気分がよければどっちだって良いのであって、言葉の存在とそのものや状況が一致しないことにいちいち囚われ、エースに賭けるかキングに賭けるかを迷っているのも無駄な時間だなと書いていて思ってきたので自分の中での下着肌着論争はここで消化できたということにしておきます。日々の中でどこか引っ掛かる言葉があると、一旦自分の中の深いところまで考えながら潜ってみることで、浮かび上がってくる時に普段見えないものが突然パッと現れることがあります。改めてバカボンのパパってすごいなぁなんて。

言葉の存在同様に世界は混乱しているってのも面倒ですが、世界地図をモチーフにしたTシャツもまだ少し残っていますので、Tシャツの回ということもあり宣伝しておきます。よかったらこちらもこの機会に見て行ってください。
