

関東では桜も散りだし新緑の季節が到来する頃。そして日差しも次第に強くなりだし、そろそろ暑さを意識した身支度を考え始めなければならない。と同時に、大型連休や夏休みの予定も考えだす頃だろうか。などと言っておいて非常に申し訳ないのだが、組織に属していない者としては連休や盆暮正月以外に休みを設けることが当然の流れなもので、今から5月の大型連休の予定を立てる頃などと言っているのは大間違いなのかもしれない。世間とのズレというものは承知しているつもりだが、ついついそれを露呈させてしまう愚かな社会不適合者である。実はそういった性質は社会人経験の中で培ったわけではなく、育った環境でそうなったのだと思う。
観光地で育ってしまったことで、暦通りの休みとなると家の周りは観光客で溢れ、道路は渋滞、駅は今では懐かしくもある券売機の行列に入場制限。どこかに出かけるなんて思えるような環境ではなかったのである。家族で出かける習慣のある家庭でもなかったこともあり、「休みはどこかへ出かける」という意識は1ミリも芽吹かなかったのだ。陰々滅々な文化系気質はそういった家庭環境の賜物なのである。昼間は部屋で何度となくこすり倒した音楽や雑誌、ビデオ録画した映画やテレビ番組などから見落とし箇所などもうないはずなのに発見があるかもと期待をしてひたすら、レコードの溝、テープ、紙面をこすり劣化させ続けていたのである。それに飽き始め日も暮れた頃になれば街や道路からは人影も減り、夜の街へと繰り出していたのである。といっても、書店、楽器店、中古レコード店へ行っては漁場を漁り、戦利品片手に同じ様な性質の友人宅へ行き、偏った文化的趣向を友とこじらせていたのである。
今では音楽や文化的なものとのファッションの繋がりは薄れてしまっているが、その頃はまだ繋がりがあったことでファッションを追っかけているつもりなどなくても好きなアーティストやバンド、映画でのスタイリングを真似したり、身に着けているものがどこのものかなどを限られた情報から読み解き、知らぬ間にファッションを追っかけていた。ネットの検索機能がない時代では、それらに時間とお金がかかったものだがその分骨身に染み付き、今になり身を助けるための芸事の様な役割を果たしてくれているのである。その当時の世の中では、自己投資とか伏線回収などいった役に立ちそうな言葉がなかったことで、純粋に自分が好きなことにのめり込めたのかもしれない。そんな客観的気づきを与える利口な言葉があったのなら、もっと計算高い利口な人間になり効率的な人生を歩んでいたのかもしれない。もちろん、生きていくためには自分を経済圏に投じなければならないわけで、ただのオタク気質をこじらせ続けるか、得た知識と経験を社会と折り合いをつけながらマネタイズしていくか、そのどちらかである。いずれにしても熱中している時にはそんなことはどうでもよく、結果としてそれらに助けられていたというのが本当のところで、当時の伏線を回収しながら社会で生きている訳ではないので、利口なタイプではないことは明白なのだ。

では、なぜそれを用いて社会における経済圏と関われたのだろうか。音楽やファッションに夢中になる中で視覚的な要素に自然とフォーカスしていたことで、楽器、レコードジャケット、フライヤー、ポスター、雑誌といった紙面、洋服の柄やディテールなどデザインとして捉えられるポイントに強い執着を持つことができた。そしてそれらを収集しながら知識として蓄積し、デザインは比較的音楽やファッションよりもマネタイズしやすい要素であると気づいたことでその世界に進んだのであろう。今ここでは、洋服を触媒としてそのデザイン的蓄積を伝達し社会と繋がっている。
デザインと言えば物に限定されるイメージがある。しかし、人生設計、生活をデザインするなどと言われるように、物以外にも使われており、さらには食べ物でさえもデザインという領域で捉えられる流れもある。そういった多方面に適応されるデザインのことは「美意識のためのよりよい伝達方法」と言った方が良いかもしれない。人が生きる中で感性に触れる部分というものはそれぞれの環境や生活の中で培われ多種多様である。それでもデザインを通し共通認識が生まれ、美意識を共有し気持ちや心を通わせ他者との繋がりを持つことができる。そのデザイン自体が何かを伝えながら、デザインが人をつなぎコミュニケーションツールとしても成立しているのである。

自然災害や経済の乱高下など流動的な要素で世の中は混乱させられる時代。そんな中で信じられるものといえば共通の認識や価値を持つものとなる。簡単に言ってしまえばそれは金やお金というものであろう。では先に言った人の美意識はどうだろうか?混乱の中でそれが換金できるわけでも、食べ物に換わるわけでもなく、腹が減った時に役に立つこともないだろう。それなのにだ、腹が減っていてもどうしてか美意識を優先してしまうことがある。白いシャツを汚してまでカレーうどんを食べたいのか?高級なニットに匂いを染み込ませてまで焼肉を食べたいのか?そんな風に人は愚かである、いや人ではなくそう思う私という者が愚かなだけだ。関係ないが蕎麦屋に入ると、厨房では常に蕎麦つゆを煮立たせてあるせいなのか、食事を済ませ店を出た後に自分が纏ったつゆの香りがすごいことがある。私は出汁か?と思うほどに。何ならその匂いでもう一杯そばが食べられそうな程に匂いを身につけている。その後の仕事をキャンセルしたい気分である……。といった具合で余計な美意識で空腹をさらに加速させることや、仕事をキャンセルせざるを得ないことがあるわけで、それほどまでに美意識=デザインというものは我々の生活や生命を脅かす存在なのである。

雨が降ろうが、槍が振ろうが、腹が減ろうが、匂いが付こうが、仕事を失おうが我々(私)の美意識の主張はレジスタンスの如く私の生活の邪魔をする。リスクがあろうともその美の意識を曲げようともせずにまっすぐ突進してくるのだ。その先に何があろうというのか?では、食べられるシャツでも作れば良いのか、それとも換金性のある金糸のシャツでも作るべきか、などと非現実的な話をしたい訳ではない。何をもってしてその美意識を殺さずとも空腹や至福を満たせば良いのだろうか。まずは蕎麦屋に行っても匂いのつかない服を作ることだ。汗による細菌の増殖を抑えた防臭加工はあるが外的要素からの防臭加工というのは聞いたことがない。いやいや、そういう話でもない。美意識が先行しすぎて自分の生活、ましてや人生を危険に晒してしまうことへの危機意識とその美意識をどの様に共存させるかである。

その間に知識と経験の蓄積から紡ぎ出されるデザインを持った服をどの様にして滑り込ませることができるか、である。美意識を優先しながらも空腹を満たし、蕎麦つゆの香りも付けずに食事をとる。たとえ飲み物や汁が跳ねたとしても魔法でも使ったかの様にシミにならず布巾で拭い去ることができる。そんな優雅な食事時を過ごせる衣服にはどの様にして到達すべきか、どうデザインすれば良いのだろうか。優雅に食事をしている最中、シャツに飛んだ汁シミで右往左往しては食事が台無しである。防護服ほどの機能を有しながら気品あふれる様を保ち続けられるための日常着。機能美や機能的デザインを絵筆の様に使い平面から立体物に描き出す。それはもう着る人の人生をデザインすると言っても良いだろう。そんな服が作れたらの話だが。しかしだ、衣服というのは不思議なものでそこに至らぬ何でもない服であったとしても、着る人の人生や生活の中でその主人公に寄り添い色付けを担うことができるのだ。人生をデザインするために何かしらの役に立つ物なのだ。例えそれがどんなに役立たずであったとしても、その役立たずを演じることで人生という舞台に更に奥行きをつけていると言ってもいい。

さて、私は何を言いたかったのだろうか。そう連休や夏季休暇の計画についてだ。照りつける紫外線に目を細めながら、暑い季節を想像し人生をデザインするためにこれからのバケーションの予定を組み立てる人たちに届けたいシャツがMERIDA SHIRTであるということ。それはユカタン半島にある暑い場所メリダである。海風を通し天然繊維を思わせる軽い生地感が異国で過ごす高揚感を呼び起こし、次の行き先のアイデアを湧き立たせてくれるだろう。クラシカルなデザインにマッチするテクスチャーに触れるだけで気持ちは南へと誘われるはずだ。衣服というのは着るだけではなく、人生をデザインするための基点としても機能するのである。CITERAがデザインをするのではなく、デザインがCITERAを動かし同時に人生も描くのである。
